昭和五十六年五月十一日 朝の御理解
御理解第一節 「今、天地の開ける音を聞いて眼をさませ。」
大変に難しい御神意のある御理解だと思います。けれども、いよいよ人間が幸せになる為には、真の信心によらなければ人間の幸せというのは有り得ないという事が分かるという事だと思うんです。だからこれは信心であれば何でも良いかという訳にはいきません。やっぱり昨夜のお月次祭にも頂きますように結局真の信心であります。
さまざまな人生の中には事がございますけれども、人生の上に起きてくるさまざまな事柄の一つ一つの事の中におかげを受けて、そしてどのような場合であっても驚かんですむとか、心が平静でおれるとか、神様にお縋りしておればという心の安らぎを頂くと、そこから積もり積もった御神徳ともなっていわゆる、人間の幸福の条件が足ろうてくる訳です。 だから本当に教祖の神様が前代未聞の教え、それは人間と天地との拘わりあいを説いた宗教は沢山あります。けどもその拘わりあいの云わば、説き方というかね、分からせ方というか、人間が万物の霊長であるという事を先ず分かったら、霊長としての云わば助かりにふさわしい、いや、でなからなければほんとうの助かりにならないという御教えを教祖金光大神の御教えに私は感じます。
ですからこのお道の信心によらなければ、人間の本当の幸福というのは有り得ないんだと。ただあの時、奇跡的なおかげを頂いた、不思議なおかげを受けたという事だけで、何十年間信心が続いておるというだけでは勿体ない。そういう云うならば、絶対のものを絶対のものとして頂いていく事の為に、いわゆる天地の開ける音を聞いて眼を覚まさなければならない。これは私はいつも思うんですけれども、さまざまな問題でお参りしてくる方が殆どですけれど、そして御理解を頂く事によって非常にそのそれこそ眼が覚めたかのように今迄の過去の生活というものが間違いだらけであったと、いわゆる天地に対する忘恩の生活をしてきた事がだんだん分かって、そして教えにこう従うてまいりますと、もう必ずねあの有り難くなるです。不思議です。もう十日も参りよるなら人相が変わってくるです。或る悩み事、悔やみ事でくうっとした顔の人がね、だんだん一週間、十日お参りしてその御理解を本当に頂きよるとね、表情が柔らかくなってはあこれで助かるぞというようなものが出来てくるんじゃないでしょうか。同時にこれが神様の働きであろうというその実証が少しづつ出来てくるからじゃないでしょうか。こりゃもう必ずですね。
云うならば喜びの芽が出てくるんです。私はその事を思うて今朝改めて昨日のお説教の中にも申しました。北島さんが昨日頂いておられるお知らせというのが、榊の木を真にしてその根に菊の花を入れてあるお花をお知らせに頂かれたという。そんな事を、まあ榊の花を花にしてあるなんて見た事もないけど、まさしく御神夢であろう御理解なんですね。 本当に自分の心が昨日の御理解の中にもありますように、自分の心が助かってくる。しかもまあ云うなら、難儀の中にあってこういう心が助かっていく様子を自分で感じて、この助かりが目には見えないけれども、先祖の御霊様たちにでも助かり、こういう助かりをしてもろうたらというような心が起こってくるんです。
心が助かりだす。ところがね、私が昨日その事は勿論、菊の花というのは合楽の信心であろう、榊というのは云うなら神の気であるから、いよいよ神心が伸びていく事であろうと思うけれども、その榊の木の伸びていくというこれはもう本当にあの合楽に御神縁を頂いてしばらくお参りをしてくると、確かに喜びの心が今迄かつて味おうた事のない喜びが頂けれる。だから本当にそれがいよいよ成長していって続くならば、今頃合楽には沢山なまだ信者が居るだろうと思うです。
おかげも頂いた。喜びも分かった。けれどもね、いつの間にかそれが萎れてきて枯れてくる訳です。だからこの辺のところが大事だなあと。
今丁度榊の新芽の時ですけれども、あの新芽を枯らすまいとする為にはいろいろな手立てがいるわけですけれど、確かに喜びの芽というのは確かにもう四、五日でも本気で参って本気で御教えを頂くと喜びの芽が出るんだけれども、それが無残に枯れたり、又は踏みにじられてしまう。てえげえ(たいがいの意)参ったばってんおかげ頂ききらじゃったちいうような事で云わば消えてしまうような人がある事は、折角の喜びの芽を踏みにじったのも同然じゃないかと思います。
いわゆる昨日北島さんが頂いておられるように、その根元の菊の花というのが大事だという事です。これは合楽の信心をいよいよさまざまな場合に体験させてもらい実証させてもらい、どんなような場合であっても喜びの云うなら菊の花を心の中に頂けれるところまでが、いってはじめて信心に、お道の信心によらなければまあ合楽の皆さんの場合ならば、合楽理念によらなければ人間の真の助かりは無いんだというところの思い込みが出来た時に初めて天地が開けたという事になるのじゃないでしょうか。いや開けてもう云うならば、又眠ってしまうといったような事のない、いよいよ開かれた、開かれていく金光大神の御教えというものが限りなく深く広く分かっていくばかり。それが楽しみであり、それが有り難いのである。
いわゆる、信心とは一年一年有り難うなっていくという手立てが、私共の信心の芯にいよいよ出来た時、初めて今天地の開ける音を聞いて本当の眼がが、本当の眼が覚めた時じゃなかろうかというふうに思います。
先ずはだからこれは誰でも合楽にならしばらくお参りをすると喜びの芽が出る。榊の木のあの芽がこう伸びていくようにしゃんとして、ああ本当にこういう有り難い信心を今迄かつて知らなかった。こげな有り難い信心があるとは知らなかった。こげな有り難い教えちゅうものが本当に知らなかった、知らなかったとまあ知らなかった事を後悔する位にあるんだけれども、そげん思うとるのだけれどもその、その身が返る。ならそういう喜びが分かるようになったからというて痛い痒いが無いかというとそうじゃない。痛い事も痒い事も、降る事も照る事もある。それに云うならば、順応したというか、いう信心。降る事もおかげなら、照る事もおかげであるというようにだんだん分かった時、為にどうしても菊の花が心の中にいっぱいなからなければいけない。云うならば合楽理念のいよいよ実験実証を積み重ねて体験に体験を積んでいよいよ絶対のものだ、成る程親先生が言われるように前代未聞の教えである事も分かり、人間の本当の幸福というのは、云うならお道の信心をおいてはないというような確信が出来てくる。為にはやっぱ先日から頂くように一つ本気で合楽で云われて居る視野の深さ広さをじいっと考えてみる事がいると思う。思うてみる事がいると思う。そして言外の言。例えば私がここでお話しをさせて頂いたその事のもう一つ奥の言葉には、表現出来ないようなものを皆さんの云うなら心の中に頂き止めていく信心。心ん中に喜びをいよいよ絶やさない。菊の花を絶やさない。でないと人間ですからね、本当に打ち萎れた上にも打ち萎れるような事が続く場合がある。例えば、あれ程の信心をしよりなさって、どうしてあげん貧乏ばせんなんだろうかというように、私の合楽教会が起こされる前の私の場合はそうでした。皆が不思議がる位でした。難儀な事が続くのです。そういう時に云うなら生き生きとした身はもう益々私の場合は瑞々しゅう、生き生きとしてきたという事が私は今日の合楽のおかげであると思うんです。だからどうぞ一つ、今天地の開ける音を聞いて眼を覚ますという事は、何かのまあ難儀なら難儀に出会った時にその難儀がおかげであったと分かるという事が眼が覚める事。その難儀がおかげであったと分かる事が積み重ねていって、自分が思うようになる事、ならん事一切が神愛であるとこう確立してくる信心が初めて、云うならばゆるがないものになってくる。だからただ信心が長く続いておるというだけじゃなくて、そういう生き生きとした、いわゆる難は霊験であるという事を本当に分かるという事。本当にあん時のあの難儀がおかげである事が分かったら次の又難儀という事もおかげという事が分かるなら、もうそこには難儀というものは無いという事になる。そういう心が頂けた時、初めて云わば天地の開ける音を聞いて眼を覚まし、そしてそれを枯らさず、萎れさせずに育てていく事の信心が出来た時に本当の信心の確立という事にもなるでしょうし、云うならば、天地の開ける音を聞いて眼がいよいよ覚めたという時になるのじゃないでしょうか。 どうぞ。